●願いの信心の基調。根賀以。
◎大きなおかげを願え。大きなおかげを頂いて大きく神様のお役に立て。そこからご神徳が受けられる。お役に立ちたいの一念が願いであり、和賀心、賀びの心、又この願いの中には、純粋、純度の高い願いがひとつありますよね。云わゆる無邪気な願いとゆう訳なんです。云うならばそういう願いもひっくるめての願い。

 昭和45年9月23日  朝の御理解


X御理解第2節 先の世まで持っていかれ子孫までも残るものは神徳ぢゃ。神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてると云う事がない。


 御神徳というものが先の世までも持って行かれると。云わば今日はいよいよ秋の霊祭りがこのお広前で行われる訳ですが徳を持っておる霊と、徳を受けておられる霊様と云うのは、それはもう大変な事ですし、大変なものですね。

 いわゆる先の世までも持っていっておられることを本当に感じます。

例えばそういう御霊の助かりというかそういう状態を分からして頂いたら、とてもとても本当にひとつ信心によってしか頂かれない御神徳を受ける。御神徳を受けていけれる信心にならなければならないと云う事を、いよいよ思いますね。

 しかも成る程、子孫までも残っておるという事実をですね、徳を受けておられる方たちは明らかにしておられます。

 神徳は信心をすれば誰でも受ける事が出来ると。ここでひとつ疑問になることは、そんなら金光様の御信心を頂いておる、信心をしておる、一生、金光様の御信心を続けたという人がたくさんありますけれども、御神徳を受けておるというのはほんのわずかです。

 してみると信心すれば誰でも受けられるとおっしゃるそのことは嘘の事になりますから。せっかく教祖様が嘘をおっしゃてあるはずないですから、その教祖様がおっしゃる信心とはどういう信心かということになるのです。

 しかもそれはみてるという事がない。神徳をいけていくと云う事はもう限りがないと云う事です。もうこれほどの御神徳を受けたから後はいらんと云う事じゃない、限りなしにみてると云う事がないほどに頂いてゆけるのが御神徳であり勿論、それに伴うてくる、みてることのない無尽蔵のいわゆるおかげがです、あの世では言うにさらなり、この世にそれを残して無尽蔵に限りなく残してゆかれると云う事。ということが有り難い事だと分からして頂いての信心をさせて頂かなければなりません。

 教祖様が此の方は人が助かることさえ出来れば結構であると仰せられた。もうお道の信心によって人がどんどん助かる、云わばじきしんのお弟子さんがたも偉い先生方でできられる。例えば佐藤宿老とか、近藤、白神といったような先生方がいわゆるお道の信心のシンをなす元を作られたといったような方達ですね。先生方は・・・そういう先生方がたくさん出来られた。

 そこで此の有り難い信心を末々までも後の世までも残しておくことの為には、どうでもこれが云うなら正式に金光教として認められ、ひとつの宗教として認められ、しかもそこに組織が出けていかなければいかんと思われたのが佐藤宿老当たりの御信心による事であった。

 そう云うように、人がどんどん助かっていく働きというものが出来ておる頃その頃佐藤宿老は教祖様にお伺いをなさっておられます。教祖様一代で終わりになるようなことではもう惜しい。だからどうでもと云うてお届けをなさっておられます時に教祖様がおしゃっておられることは、「此の方は人が助かることさえ出来れば結構である」とこうおしゃられた。

 そこでね、そんなら教祖様は人を助けれる力というものを頂いておられたという事をまず知らにぁいけません。なあにも力のない者が人が助かりすればよいと云う事を教団、教団というか、お書物を読ませて頂きますと至る所にこれは出てくる言葉です。

 金光教の生命は人は助かることさえ出来ればということなのです。お道の新聞なんか見てみると必ず何カ所もそういうような、ことばが出て参ります。

 いかにそれを云うたところで助かりすればよいと云ったって人が助からなっかたらどうするか。助かるどころか助けられておる教会だって私はあると思うです。信者は助からん、少しばっかりの信者にその教会が助けられておるというようなのもあると思うですよ。

 そこではね人が助かりすればというのは、そんなことじゃない、人がどんどん助かっていくという事。

 そこでそんなら教祖様が人が助かることが出来ればとおっしゃた。おっしゃられる程しの信心のひとつの前提となるもの。

 教祖の神様が天地の親神様から御神伝を受けられ、神頼みを受けられる。取次ぎ助けてやってくれという願いを受けられる迄の教祖様の信心なんです。云わば云うならば教祖様の一身一家の上にそれこそ七墓築くような程しのことがですおきてきた。

 実意丁寧のお方であったことは御伝記にもいうとおりであります。

 昨日私、朝の御理解を頂き終わってから久留米の佐田さんに改めて申しましたことですが。それは佐田さんが大変実意丁寧な方でありお商売をも命のように精進される、大変に努力精進される。

 いわゆるまじめで正直で云うなら従業員からも又はお得意さんからも佐田さんはと云われる程しの人物というものを生まれつきのようにして持っておられる。

 けれども「佐田さん、それを持っておられただけでは駄目ですよ」と。まじめとか忠実であるとかだけでは、成る程一生懸命働くから儲けだしはしまししょう。例えば教祖の神様が云うなら本当に水呑百姓と云われる程度のお百姓からわずかな養子においでられてわずかの間に、村で何番目と云うほどしのたくさんな田地田畑を買い求められた。あの時代にですよ。

 もうそれこそ百姓という者は生かさず殺さずと云うような政策の時代なんですからね。その時代に例えば一反の田なら一反の田でも増やせるという事は大変なことだったろうとおもうのですよ。

 それを例えば佐田さんが当たり前のように、とにかく、一生懸命人の何倍も働いて、しかもまじめで人の信用もついて。御養子ですから、云うなら村ではよそ者と云われる方が、やっぱり壮年の頃になると上の方へ座らせられる程しの、云わば信用を受けておられた訳ですね。村の中でも。御伝記にもそういうのことがはっきり残っております。

 ですからそれではね佐田さん、いけませんよ。あなたが一生懸命忠実になさっておられることがです。それが信心であり修行であり昨日、私が申しましたそのことがね、そのことが信心であり修行であると思うて取り組まなければ駄目です。

 だからまじめであるとか、一生懸命働いているとか、云う事だけが信心では決してないということ。私もどっちかというと大体きちっとせにぁ好かん方です。

きちっとせにぁ好かん性分がです、例えば昨日も申しましたように便所の下駄ひとつでも揃えなければおられないというのではなくて、わたしがそれを真心(しんじん)でそうさせてもらう訳なんです。

 だからここはろくそな人もろくそでない人も真心(しんじん)でするということになると

同じ事。いわゆる心が神様へ向かっておるそういう風に日常茶飯事の中にいつも神様に心を向けると云う事がいつも向けておるから、御神前に座って、さあこちらを向いて下さい、というて拍手打たなければこちらを向きなさらん。いやいくら拍手打っても、御祈念しても神様は向こうをむいてござる、といったようなことにしかならない。その証拠におかげを受けられないでしょうが。

 という風に私は佐田さんに申しましたがです、教祖様とてもやっぱりそのような時代がおありになたれた。まじめで実意丁寧の権化のような方であられたから、信心は例えば信心好きでおありになったけれども、只今そんなら金光教で説かれておられるような信心は只、俗に言うお宮さんに参ったりお寺さんに参ったりする事が好きでおありになったという程度の信心。

 だから、そういう信心では駄目だと。ところが段々信心が教祖様のご信心が成長し分かってお出でられた頃にはですね、どういうそんなら七墓築くようなことがあってもそれを神様の御都合として受けてござると云う事です。

 自分も大抵信心を手篤うさせともらいよるばってんどうしてこういう事が起こってくるじゃろかと云ったようなことではなくて一人の息子さんが、二人の子供さんが病気をされる、一人は亡くなられると云うような不運な事になってくる一人は助かられた。けれども一人は亡くなられたという時もです。その亡くなられたと云うことをですもう自分に信心の不行き届きとしてお詫びをしておられると云うこと。

 そして助けられたことはもう一から十まであなたのおかげで助かったとして云うだけじゃない思うだけじゃない御祈念をするだけじゃない。わざわざ神主を呼んでお礼のお祭りをもなさったという事。

 その辺のところの生き方がです今日云う此方は人が助かることさえ出来ればというその基礎というものがその時代に出来ておったという事なんです。

 それを例えば申しますとです、私が最近願いと、合楽の信心の転期、それは願いの信心に変わっていくということを申しておりますが、その願いの信心とても。そういう願えれる信心の基本になるもの、基礎になるもの、それを私は最近、基調と申しております。その基調になるものがです、あって願いの信心に立たなければならないと。

 だからそれを簡単に云うと、信心はもうあくまで本心の玉を磨くものであり、日々の改りが第一でありここで言われていた限りなく美しゅなりましょうであり、しかもどのような問題の中からでもその問題を通してそれを有り難く受けさせてもらえれる信心の稽古というものを本気でさせて頂いてそれを成り行き大事にさせていただくという風に例えばいうて参りました。

 そういう信心がですよ、一つ基本になってからそれからこちらの信心なんですよ。信心すれば誰でもおかげを受けられると、信心すればおかげだけでない、誰でも神徳が受けられるとおっしゃるのはそこなんです。その辺のところだけはよしないと私のこれからの言うところが分かりませんよ、しだごだになってしまうそういう信心を一つのなんと言いましょうか一線上にでれるとおっしゃる一線上にね、もう信心とは一生懸命お願いをすることだという前提としてですね。教祖様がそれこそすべてのことを此の方の道は喜びで開けら道だからとおっしゃる様に。どのような事でも、その前提として、喜びを持って受けねかれたという、その生き方がです。神頼みということになり、しかも、そんなら佐藤宿老におっしゃっておられるようにです、此の方は人が助かることさえ出来ればと言う事になっておるのです。

 そこで私共はそんなら過去二十年間、五年の方もあらぁ三年の方もありましょう、けれども合楽の信心のひとつの基調というものがこんなものだと言うことをみなさんがわかられた。それを基礎として、そんなら願うという信心が生まれてくる、しかもその願いというのが、どうゆうことかと言うと、根賀以に徹せよとゆうことなのです。

  願いということはどうぞ病気を治して下さいというだけじゃいけない。お金をお繰り合わせを下さいというだけじゃいけない。それがどこ迄も根賀以でなでればならない。賀びを以て根とすると。

 そういうそんなら私共が過去二十年間してきた信心を基調としてのねがいと同時に神様がお喜び下さるであろうとゆう心で願えと。

 だから健康にして下さい、健康にして下さい、お金のお繰り合わせを下さい、お金のお繰り合わせを下さい、と言う願いでは神様は喜びなさらん。

 いわゆる人が助かることがさえ出来さえすればと言うことをここでは世のお役に立たして下さいと言っておる訳です。今年のスローガン、世のお役に立たせて頂きたいその一念が、どうぞ健康にもして下さい、お金のお繰り合わせもください。

 今そこのところからです、神徳は信心すれば誰でもが受けられると言うことに成ってくるんですよ。だから金光様の信心しよりゃ誰でも受けられると言うことではなくてそういうひとつの、教祖様の例を取りましたがね、教祖様が神頼みを受けられる以前の生きられ方というものは、もう実意丁寧、しかも佐田さんじゃないけれどもそれこそ業者の方達がほめちぎる程の云わば生き方をしておられる。又はお得意さんが佐田さん佐田さんと言うて云うなら尊敬される、従業員の人たちが佐田さんが云われることなら尊敬も云うなら一身に集めて一生懸命に。;

 だから私は信心が、商売が信心じゃからと奥さんに夕べそのことについてですね。確かにそうなんだ。けれども厳密に、私ゃこれが信心だと云うておるけれども、そうではない事実を私の体のこと、私が今、糖尿病をいう体で云うなら難儀をしておるそのことと私が。このことは話が長くなりますから。

 私もこれほど、神様を頂ききっておるように思うけれども今度の糖尿病と云う病気の事によってです。いわゆる糖尿病と云わなければおられないという事実に直面した。又はある時には同じ時期です、いやこれは糖尿病という名の神様のご都合だと頂けるその中に立っておる現在はそういう危険な状態に私はあるのだと。

 あんたが商売一身に私は商売そのものが信心だと言いよるけれどもあるところ迄いくとそれが分かる、やはりそれは佐田さんの商売で、かえって持ってないような事になってきておる。

 かというと、このそれらお店のことはもう全部が神様の御用させて頂いておると言うときがないじゃない、ある。けれどもその中にあるもの。

 だから私が今朝から言うように、夕べまたおはなししました。

 だからあなたが忠実であるとか、一生懸命やっておられるそのことがね、もういつの場合でも、信心させて頂いておる教えに基ずいておる自分と言う自覚がね、これが修行だと、言うならば神様ともいつも交流しておるものがなからなければだめなんです。

 だからあなたはちょっと向きを変えればもうおかげを受けておられるのだから、

ちょっとその向きを変えれるということが実に言うたら難しいのです。その実感的なもの、そこには限りない繰り返し繰り返しの信心の稽古がいる訳です。

 だからそこのところからです、そこのところから神徳は信心すれば誰でもうけられると言うことになる。

 ですから今合楽で言うておる例えば生き方にずーっと便乗さえしてくれば、そして私共が本当に願いが成就して、例えば億万長者になれせて頂く、健康にならせて頂く、もう言うなら本当に体でも財ででも、いろんな意味で、世のお役に立たせて頂けると言う、そのおかげを頂いてお役に立つところからです。御神徳を言うものは受けられると言うことです。ですから御神徳を受けさせて頂けれるもうすれすれのところに合楽はある訳ですね。

 そこんところをようく腹にいれさせて頂かねばならない。でないと信心すれば誰でも御神徳を受けられると言うそんなら信心しよりゃ誰でも一辺は御神徳を受けるのだと言ったものじゃないと言うこと。いわゆる、おかげは和賀心にあるんだと、本気で思わせて頂いて和賀心にならせて頂く精進をさせて頂いてで、すなれるなれんは別としてその精進をふまえての願い。 同時にその願わせていただく願いの内容がです、神様がお喜びが頂けるような根賀以が焦点としての願い。

 いわゆる世のお役に立ちたいの一念がどうぞ健康を下さい金銭のお繰り合わせを下さい。その日暮らし的なおかげを頂いておってもこれではお役にたてない。自分には少し手がとどかんように有りますでれども、例えばせめて一千万位はいつも遊んでおるお金が有る位な、いや一億円位はいつも遊んでおる金が有る位な、さあここはお役に立たねばならんと言うときには、はい一億円ですかと言うてそれが本当に言わば出せれる程しの力、そういうおかげをですね、私共にここんところ、みてるということがない程しのことですから、一億円の力を受けて一億円を出したらもう一億円が入ってきておるというおかげになる御神徳というのはそれなんです。 お金だけのことではありません、すべてのことがそうなんです、世のお役に立ちたいの一念、その一念が燃やされる。

 昨日、午後の奉仕をさせて頂いておる時でした。今度、おかげの泉はこの頃の十三日会の時のお話が今度印刷屋に回される。その原稿が出来ておったから読どってくれというから私はここで読まして頂いておった。

 そしたら、丁度高芝さんのお話のところを読まして頂いておった。読まして頂いてもう本当に感動してそこんところを読まして頂いてちょっとそこを見たら、ここに、あの、そのこの娘さんの淑子さんがちゃんと子供を抱いて座っておりますもん。

 私はねもう途端に感動しまして、昨日は丁度日晴れでしたからお礼参拝をして来ておるのです子供と。いい子が出来とります。

 それでお母さんといわゆる高芝さんの奥さんとお婿さんの隈井さんと、親子四人連れでお礼参拝をして来ておる。それで先にちょっというたらその前にちゃんと座っておりますもん。私は親子そろいまして申し上げさせて頂く前に話したことですけれどもね。 本当に淑子さん、あんた達がねこうやっておかげ頂いているのも、もう万事万端におかげ頂いて実際におかげ頂いておる。子供のお名前ももう恵子と頂いたが、本当に恵まれたおかげを頂いておる。

 それもねこれからとてもやはり恵まれ続けなければいけない。その為にね、やはりお父さん、お母さんがあんた達のために信心を一生懸命はなさったようにあんたもこの子の為にひとつ夫婦でしっかり信心させてもらわにゃいかんよ、今頂いたおるおかげはね、と言うて話した事ですけれども。

 『丁度小さい洗濯たらいの様なたらいにね、おもちゃの船がね、ねじまきゃ盥の中を回るのがありますでしょ、あれをね、後ろに日章旗を立てとる船なんですがそれがグルグル回っておるところを頂いた。

 だから言うならばおかげをうけておっても本当に云うならば幼稚なおもちゃのお徳と云うか、おもちゃの信心位で、おかげを受けておるのであるから。これからひとつ本当の信心をさせてもらわなゃいかん。

 本当の信心というのは、これが本当な、それこそ大海に乗り出していくと云うように船はお徳とおっしゃる、その合楽なら合楽というお徳の船に乗らせて頂いてです、それこそ後ろに掲げてある八ツ波の御紋章とでも云おうか、日章旗でもいいでしょう、それこそもう勇ましい進んでいく日の丸がはたはたといくような在り方にならにゃいけん

 ところがこれはおもちゃの船のような訳にいかん。やっぱり太平洋の真ん中というごたるところに出ていくと、波のうねりも大きゅうなる、それこそ上に下に揺れる様な時にです、ここを通りぬかせて頂く、それを有り難く頂かせて頂くという信心にならなければほんなこつじゃないよ。

 ちっと揺れてくるともうムカムカしてくる、ちっと上下に揺れるともう吐く、と云うような云わば信心させて頂いておってから、ちっと神様の働きが始まると揺れてくるともうそれからおろして下さいと云ったようなことになる。いわゆるムカムカしてくる。いわゆる今迄頂いた信心まで吐き出してしまう。その信心が血にも肉にもなってないようなことに終わってはならん。

 今迄はおもちゃの船ぐらいのことでおかげを頂いてきたが、これからはひとつ

本当の船に乗らしてもらわにゃならん。それにはやはり横に揺れようが縦に揺れようがです、びくとんせんだけの、その中でどんどん活動が出来る位な、やはりおかげを受けなならん。そういう信心をこれからはめざさにゃいけんよと。もうお父さんやらお母さんやらが申します。もうどうでんこうでん教会の近所に、久留米の瀬の下の方におります、それで今度合楽の田中さんの所にお願いして、その借家が出来よりますから、あちらにおったら信心が出来ますでしょうから、あそこに変わらせて頂くようにしとるそうですが、やはり信心を志そうとする姿勢を作ろうとしておる訳なんです。

 私共がですね、本当にやはり信心させて頂いてです、それを和賀心で受けるとか、元気な心で受けると云うことはもうみなさん既に、その大きな云わば大海に乗り出しておるところの船に乗せて頂いておる私たちと云う自覚。

 そこでそんなら、もうなごうなっとって、いわゆる動ききらんという人も有ろう、だから、それに慣れさせてもらうと云うが、本当にその中になじませて頂くと云うが、その揺れておる波の中で活動の出来る程しの信心を受ける、受けれると云うことがです。そんなら過去、私共が二十年してきた信心であると云うことになる訳なんです。

 どのようなことでも有り難い元気な心で受けられると云う信心をです、云わばそこに基調としてからの、それからこっちの信心。しかもこれからこっちの信心はどういうことかと云うと願いに願いぬけと、こう言うのである。

 それもお役に立ちたいの一念が願いであり、和賀心、賀びの心、又この願いの中には、純粋、純度の高い願いがひとつありますよね。云わゆる無邪気な願いとゆう訳なんです。云うならばそういう願いもひっくるめての願いです。

 ですからそういう願いに立たせて頂いてです、教祖様が人が助かることさえ出来ればとおっしゃったように、私共は世のお役に立つことでさえあるならばと云う信心なんです。世のお役に立たせていただくことであればどんな修行でもいとわんと云うことになってくる。

 それがそんな合楽で二十年間させて頂いた、そうゆう基調と云うか基本というものがなしにです人が助かることが出来きればと云うたって助かりよらんじゃないか、自分が助けられるような先生であってはならないしね。なら皆さんでも世のお役に立ちたいと云っても人から親切どん受けとったちゃ、反対にお役にたってないということになるえしょうが。

 その為には健康を頂かねばならん、この為にはどうでも財のお繰り合わせを頂かねばならん、その日暮らしも本当に有り難い、けれどもその上に立った信心、これから先がいよいよお役に立たして頂くという信心。

 そういう信心をこれからは身につけていこうと、こう云うのである。

 例によって昨夜も私は丁度二時半頃まで御霊前で今日の霊様のお祭りを受けられる霊様の云うならばそのことを夕べここで御祈念をさせて頂いておりました。

 御霊前に座って一番初めにね、霊様のまあ云うならばお礼を云われる、まず昨日をお礼を先に受けたのです。座った途端に。

 そしてね、どういうことをお礼を云うておられるかと云うとね御神眼に、ラムネですね、みなさん知らん人があるかもしれんですね。サイダーの今もう無いでしょ。あのラムネというのは中に炭酸がですね、ベスっといったようなものが入っておる飲み物なんです。

 あれの上に紙が張ってありますでしょうが、レッテルが上に口の所に張ってあるでしょうが。霊様達でもです、合楽の信心につながってござる霊様達はどういう風に思うてござったかと云うたら願いと云うことはね、願いと云うことはいかにも自分の信心を破るように思うておられたんです。

 これは合楽の皆さんと同じことです。どうぞどうぞというて願うことはちょっとおかしいことのように思うておった、信心を破るように思うておった。いわゆるラムネの上にあるレッテルをですよね、破らなければ玉は落とされんでしょうが、あれは破るかそれをとらなければ。

 信心をとらなければ信心を破らなければ、願いというそれこそ、胸がベスっといくようなおかげは頂かれんと思うておった。

 ところがこれは破るのではない、本当のおかげを頂くことの為に、本当にベスっというおかげを頂く為には、これを破らなければならない。

 それはしかも破ることではない。そういう今迄私が申してまいりました。

ところの信心を土台としてです、願うと云うことが出来ることになったと云うことですね、一番のお礼の云わばお言葉を私は夕べ受けたです。

 皆さんが願えると云うことが、本当に有り難いこと願いよる、おかしいですね今迄も願てはきたんですからね。けれども願うと云うことが神様の気感に適うことであり神様が喜んで下さることだと云ったような意味での願いじゃなかったでしょうか。

 そういう願いを今度は霊様もお出来になられると云うことがです、有り難いというお礼を私は受けた、霊様から。

 だからなら云わば、霊肉共と云うですか、私共一家のそんな根の方でも願いの信心が生き生きとしてきた。私共も願いの信心が生き生きしてくる。とゆう、云うならそういう意味合いに於いての今日の霊様のお祭りはそこが焦点になるのじゃないかと思います。という程しに例えば先の世までも持っていかれるという信心の徳を受けたい。しかも限りなくみてることのないという程しに受けていきたい。

 そんならその神徳を神徳は信心すれば誰でも受けられるとおっしゃるが、誰でもは只、信心しよるから受けられるということではない。

 こういう信心をしたらと、それは教祖様が自分が示しておられる天地金乃神様から神頼みを受けられる以前の信心が人が助かることさえ出来ればという基本をなしておるということなんですよ。

 私共二十年間してきた信心が基本になって世のお役に立たして頂きたいの一念が、願いということになるということなんです。人が助かることが出来れば同じことになる。

 そういう信心をさせて頂けば誰でも御神徳が受けられる、その御神徳は先の世までも持っていかれ、子孫にも残る、しかもみてるということが無い、という程しのおかげであるということを、皆さんが一辺よく承知して、分からせて頂いてそして私は、お互いのいわゆるこれからの云わば合楽の信心に云うなら遅れをとらんように、便乗させて頂いておかげを蒙っていかねばならんと思いますね。どうぞ。